読売日本交響楽団第192回土曜マチネーシリーズ
フルラネットの翌日は東京芸術劇場で読響の土曜マチネー。カンブルランの指揮でラモー《カストールとポリュックス》組曲、シュタットフェルトをソリストに迎えてモーツァルトのピアノ協奏曲第15番変ロ長調K450、そしてシューベルトの交響曲第8番《ザ・グレイト》が演奏された。コンマスは長原幸太。
ずいぶん長い間ブログを休んだが、いつも読んでくださっていた人からコンサートに行っていないのと聞かれた。もちろんそんなことはなく、シーズン中はほぼ毎日のようにコンサートに出かける(職業柄当然だけど)。でも、仕事が忙しすぎたり、そのコンサートについてどこかで書くことになっているとついご無沙汰してしまう。できるだけ書こうと思うので、これからもどうぞよろしくお願いします。
さて、一曲目のラモー。ここ数年、日本でもようやくピリオド系の指揮者がオーケストラを振る機会が増えた。古楽大好き人間にはとてもうれしい。モダン楽器の演奏家たちもどんどんバロック以前の音楽を演奏してほしいと思うから。
読響もロトやシュタイアーなど古楽系ないし、古楽に強い指揮者やソリストの登壇が増えて頼もしい。常任指揮者のカンブルランは決して古楽系ではないが、今回はラモーの《カストールとポリュックス》の組曲を取り上げた。星座にもなったギリシャ神話の兄弟愛を主題にした抒情悲劇で、ラモーのオペラの中でも人気が高い。そこから序曲と3つの舞曲。こういう曲は、演奏者がフランス・バロック特有の響きを理解していないと様(さま)にならないが、今回は小ぶりの編成でヴィブラートも控えめ。弓の返しが多く、序曲の強調された付点音符など、古楽演奏に馴染んだ耳にも違和感なく聴ける。フレンチ・バロックのダンスの軽やかさや華やかな色彩が楽しい。
続いて、デビュー以来ユニークなバッハで知られるシュタットフェルトのソロによる、モーツァルトの協奏曲。長身痩躯に、金ボタン付きの詰め入り黒のロングコートで登場。ピアノの椅子をうんと深くして座る。背中の長い裾が床につきそうなくらい低い。スヌーピーのトイ・ピアニスト、シュローダーみたいだ。その演奏は徹底して弱音。調律にも独特なものが感じられたが(詳細は分からない)、ダンパーとシフトペダルを巧みに使い、まったく独自のサウンドを聴かせる。第2楽章などは例によって右手の音域を一オクターヴ上げるなどして夢幻的な世界を繰り広げた。アーティキュレーションの扱いも非常に繊細だが、それで音楽を「語らせる」というよりは、むしろ音色やソノリテの手段といえる。第1、第2ヴァイオリン合わせて14人(?)ほどの小編成だが、それでもトゥッティになるとソロが聞こえない。音が小さいのはフォルテピアノも同様で、曲によってはモーツァルトもピアノとオケが重なる箇所でヴァイオリンなどを各パート一人に指示しているのだから、試みてもよかったかもしれない。いずれにせよ、とても感覚的で耽美的な、大変に興味深いモーツァルトだった。アンコールはモーツァルトが神童の頃のK15kk。ますますシュローダーだ。
休憩後のシューベルトは、シュタットフェルトの内向的な世界から解放されて、一気にはじけたという感じだ。編成も大きくなり、第1楽章から速めのテンポで軽やか。生き生きとして、生命の輝きに満ちた演奏に、豊かな緑と太陽の光に溢れたオーストリーの風景に遊ぶ、作曲家の心が感じられて思わずほろり。他の楽章も然り。音楽の流れはナチュラルで、終楽章などは力強い音楽の推進力がすばらしく、爽快このうえない。まさに青春の交響曲。「グレイト」「長大」「後期作品」のイメージから、とかく巨匠風の演奏が多いが、31歳で没した作曲家にとって、果たして僕たちが考えているような晩年があったかどうか。そんなことを考えさせる好演だった。(10月8日 東京芸術劇場)
ずいぶん長い間ブログを休んだが、いつも読んでくださっていた人からコンサートに行っていないのと聞かれた。もちろんそんなことはなく、シーズン中はほぼ毎日のようにコンサートに出かける(職業柄当然だけど)。でも、仕事が忙しすぎたり、そのコンサートについてどこかで書くことになっているとついご無沙汰してしまう。できるだけ書こうと思うので、これからもどうぞよろしくお願いします。
さて、一曲目のラモー。ここ数年、日本でもようやくピリオド系の指揮者がオーケストラを振る機会が増えた。古楽大好き人間にはとてもうれしい。モダン楽器の演奏家たちもどんどんバロック以前の音楽を演奏してほしいと思うから。
読響もロトやシュタイアーなど古楽系ないし、古楽に強い指揮者やソリストの登壇が増えて頼もしい。常任指揮者のカンブルランは決して古楽系ではないが、今回はラモーの《カストールとポリュックス》の組曲を取り上げた。星座にもなったギリシャ神話の兄弟愛を主題にした抒情悲劇で、ラモーのオペラの中でも人気が高い。そこから序曲と3つの舞曲。こういう曲は、演奏者がフランス・バロック特有の響きを理解していないと様(さま)にならないが、今回は小ぶりの編成でヴィブラートも控えめ。弓の返しが多く、序曲の強調された付点音符など、古楽演奏に馴染んだ耳にも違和感なく聴ける。フレンチ・バロックのダンスの軽やかさや華やかな色彩が楽しい。
続いて、デビュー以来ユニークなバッハで知られるシュタットフェルトのソロによる、モーツァルトの協奏曲。長身痩躯に、金ボタン付きの詰め入り黒のロングコートで登場。ピアノの椅子をうんと深くして座る。背中の長い裾が床につきそうなくらい低い。スヌーピーのトイ・ピアニスト、シュローダーみたいだ。その演奏は徹底して弱音。調律にも独特なものが感じられたが(詳細は分からない)、ダンパーとシフトペダルを巧みに使い、まったく独自のサウンドを聴かせる。第2楽章などは例によって右手の音域を一オクターヴ上げるなどして夢幻的な世界を繰り広げた。アーティキュレーションの扱いも非常に繊細だが、それで音楽を「語らせる」というよりは、むしろ音色やソノリテの手段といえる。第1、第2ヴァイオリン合わせて14人(?)ほどの小編成だが、それでもトゥッティになるとソロが聞こえない。音が小さいのはフォルテピアノも同様で、曲によってはモーツァルトもピアノとオケが重なる箇所でヴァイオリンなどを各パート一人に指示しているのだから、試みてもよかったかもしれない。いずれにせよ、とても感覚的で耽美的な、大変に興味深いモーツァルトだった。アンコールはモーツァルトが神童の頃のK15kk。ますますシュローダーだ。
休憩後のシューベルトは、シュタットフェルトの内向的な世界から解放されて、一気にはじけたという感じだ。編成も大きくなり、第1楽章から速めのテンポで軽やか。生き生きとして、生命の輝きに満ちた演奏に、豊かな緑と太陽の光に溢れたオーストリーの風景に遊ぶ、作曲家の心が感じられて思わずほろり。他の楽章も然り。音楽の流れはナチュラルで、終楽章などは力強い音楽の推進力がすばらしく、爽快このうえない。まさに青春の交響曲。「グレイト」「長大」「後期作品」のイメージから、とかく巨匠風の演奏が多いが、31歳で没した作曲家にとって、果たして僕たちが考えているような晩年があったかどうか。そんなことを考えさせる好演だった。(10月8日 東京芸術劇場)
by Musentanz
| 2016-10-09 18:19
| コンサート