東京・春・音楽祭「ジャック・カロ記念コンサート」太田光子
「東京・春・音楽祭」の「ジャック・カロ~リアリズムと奇想の劇場」展記念コンサート。ジャック・カロ(1592年~1635年)は現フランス、ロレーヌ地方出身。若い頃にローマで修業し、フィレンツェで活躍した、細密でリアル、同時に想像力溢れる奇想天外な銅版画(エッティング)で知られるが、僕がまず思い浮かべるのは、シューマン。なぜかというと…。
ドイツ・ロマン派の作家で音楽家で音楽評論家で自ら風刺的な絵の画家として知られる(なんて長い肩書き!まさにマルチ・タレントだ)ETAホフマンの書いた、『カロ風幻想作品集』は幻想的な小説や音楽評論からなる、ジャック・カロへのオマージュともいえる作品集だが、シューマンが愛読したことでも知られ、《謝肉祭》などの小品集に共通の世界観や気質が感じられる。つまり、カロ=ホフマン=シューマンという連想だ。
さて、今回聴いたのは、カロの展示と併せて企画されたコンサートのVol.1「花ひらく調べ~メディチ家統治下のフィレンツェゆかりの音楽」(4月8日 国立西洋美術館講堂)。出演は、リコーダーの太田光子、チェンバロの戸崎廣乃、ガンバに櫻井茂。カロが活躍した頃のフィレンツェ周辺の音楽、すなわち、フレスコバルディやウッチェリーニ、ガリレイ、ファルコニエーレら後期ルネサンスから初期バロックの作曲家たちの、カンツォンやソナタ、ディミニューションなどが演奏された。
太田光子のリコーダーは明るくて健康的で、身体全体から音楽が溢れ出る。生き生きとしていてどの表現もきわめて明快。アフェクト(音楽で表現される情感)の多様さもすばらしく、彼女の手に掛かるとどんな音楽も、生命を得て躍動するのだ。そんな太田のリコーダーを戸崎と櫻井の通奏低音が好サポート(チェンバロは独奏曲も)。3人で演奏したガリレイ(有名な天文学者の父)の《サルタレッロ》では、ガンバを部分的にリズム楽器として用いる編曲が楽しく、太田版のデ・ローレの《何度も別れたい》によるディミニューションではリコーダーの鮮やかな超絶技巧に耳を奪われる。曲の合間に楽器や楽曲について解説したが、それにしても太田さん、お話しが上手ですね。「私もメディチ家に会いたい」(芸術家の活動を経済的に支えた)に同感。
ドイツ・ロマン派の作家で音楽家で音楽評論家で自ら風刺的な絵の画家として知られる(なんて長い肩書き!まさにマルチ・タレントだ)ETAホフマンの書いた、『カロ風幻想作品集』は幻想的な小説や音楽評論からなる、ジャック・カロへのオマージュともいえる作品集だが、シューマンが愛読したことでも知られ、《謝肉祭》などの小品集に共通の世界観や気質が感じられる。つまり、カロ=ホフマン=シューマンという連想だ。
さて、今回聴いたのは、カロの展示と併せて企画されたコンサートのVol.1「花ひらく調べ~メディチ家統治下のフィレンツェゆかりの音楽」(4月8日 国立西洋美術館講堂)。出演は、リコーダーの太田光子、チェンバロの戸崎廣乃、ガンバに櫻井茂。カロが活躍した頃のフィレンツェ周辺の音楽、すなわち、フレスコバルディやウッチェリーニ、ガリレイ、ファルコニエーレら後期ルネサンスから初期バロックの作曲家たちの、カンツォンやソナタ、ディミニューションなどが演奏された。
太田光子のリコーダーは明るくて健康的で、身体全体から音楽が溢れ出る。生き生きとしていてどの表現もきわめて明快。アフェクト(音楽で表現される情感)の多様さもすばらしく、彼女の手に掛かるとどんな音楽も、生命を得て躍動するのだ。そんな太田のリコーダーを戸崎と櫻井の通奏低音が好サポート(チェンバロは独奏曲も)。3人で演奏したガリレイ(有名な天文学者の父)の《サルタレッロ》では、ガンバを部分的にリズム楽器として用いる編曲が楽しく、太田版のデ・ローレの《何度も別れたい》によるディミニューションではリコーダーの鮮やかな超絶技巧に耳を奪われる。曲の合間に楽器や楽曲について解説したが、それにしても太田さん、お話しが上手ですね。「私もメディチ家に会いたい」(芸術家の活動を経済的に支えた)に同感。
by Musentanz
| 2014-04-16 10:34
| コンサート